運命はある派。
ロマンティックかどうかは置いておいて、"ここで折れたら/ここで譲ったら"みたいな瞬間が人生に立ち顕れることがある。identityの闘争みたいな。
それを美学と自分は呼ぶが、ここで何を選択するかというあらかじめ決まっている「さだめ」が人生にあると思う。
そういったシーンで少なくとも自分は折れたり譲ったりしてない、闘争において掴みたい結果を掴めなかった"敗北"は数え切れぬほどあるけど棄権はなかった。
それが自分を自分たらしめてる気がするし、別に棄権しても自分なんだと思う。美学だから。
少なくともこうして振り返ってみて、最低限の闘争はしている自分の底力を心から誇りたい。
仮死状態のような25年間、鼓動はあった。再び脈を打ち始めるターニングポイントにいる。
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今年の漢字、考えてみた。
「煌」にする。
就活のイレギュラー質問対策「あなたを漢字1文字で例えると?」にこれを出す予定だった数年前。
「情熱の火と俯瞰する皇」ってさすがにイキリすぎだし、実際に答えてたら自己満すぎてウケ悪そう、自分のアホさに今気づいた。
でも人間って変わらない部分もあって、この漢字はまだ残ってる、"煌めき"として。
何か好きなのよね、暖かさ/輝き/深み(色気)を満たしてない?わりと指針にしてきたなあ。
来年は「雅」の1年にしたい。
自分の名前の漢字ということで自分に立ち戻る意味と、美学(品格)を確立する1年にしたい。
美学のために生きて美学のために死ぬ人間なんだと思う、何となく。
「好きなことで生きてく、やりたいことやる」
現代のこの謳い文句、あんまりしっくり来ない部分があって。でも自分の言ってることはこれと変わんないんだろうとも思ったりする、自己満足を希求する点では。
ただ、「幸福のために不幸になる必要はない」という点において自分の美学は考えものだよなあ。
美学を通す時、刹那的観測なら結構な不幸にはなる。ただ、identityの闘争なんだよ。折れたら/譲ったら自分を誇れるだろうか?
キリがないので、とんでもないないパワーでぶち折られたら考えるか。それも自分として生きてくんだろうけど。